『WHO AM I』

ジャッキー・チェンはどこまでもジャッキー・チェンであった

普通は俳優が役を演じるのであって、本人のキャラクターと劇中のキャラクターが重
なる事は、俳優本人にとってはあまり良くない事だと思う。事実ショーン・コネリー
はジェームズ・ボンドの呪縛から逃れるためにシリーズから降りたし、藤岡浩は2号
ライダーになったばっかりに、NHKの朝ドラに出ててもいつ変身するのか視聴者から
期待される始末である。スクリーン上の登場人物と俳優本人が同一になってしまうと
、大体において役者生命を縮めてしまう結果になるという経験則が存在するのだ。

ところがここに、本人と役柄のキャラクターを完全に重ね、なおかつそれで成功を収
めているスターがいる。そう、アジアが生んだ最高(ホメ過ぎ?でもいいよね)のア
クションスター、ジャッキー・チェンである。彼がスクリーンに登場する時、その役
柄が警官だろうが諜報部員だろうが旅廻りの芸人だろうが、彼がカンフーの得意な陽
気なあんちゃんである事は、お約束の了解事項なのだ。観客はこれから展開される彼
のアクションに期待し、彼もまたそれを裏切らない。事実彼はデビューから一貫して
スタントなしで、全て自演のアクションシーンを演じる事により、この了解事項を成
立させてきたのである(多分)。でもCG全盛の時代に、ここまで自分でスタントしな
くてもいいじゃん、キアヌだってスタローンだって、どーせ危ないとこは吹き替えな
んだから、などという考えは浅はかこの上なし、そういう人には残念ながらジャッキ
ーアクションを楽しむ資格はないのだ。彼の自前のスタントこそが、スクリーンの外
と中の姿を同一視させる幻想を支える絶対条件なのである。彼がもし自前のスタント
を止めたら、おそらく今の形での彼の映画はその基盤を失って成立しなくなるであろ
う。そう、既にジャッキー・チェン主演映画においては、ストーリー云々以前に、彼
と彼を取り巻く世界観、言い換えれば彼の肉体そのものがストーリーとなってしまっ
ているのであった。だいたいにおいて、彼は映画中でいつも役名が『ジャッキー』で
はないか。これこそジャッキー自身がスクリーン中外の自分を確信犯的に同一視させ
ているという事の動かぬ証拠である。

さて、肉体にストーリーを持たせる映像媒体がもうひとつ存在するのをご存知だろう
か。察しの良い人ならお気付きであろうが、AV(アダルトビデオ)がそれである。A
Vの最大の特徴は、女優の名前(芸名だけどね)と役名が(多少の例外はあるが)同
一であるという点にある。これはテープに記録されている彼女の姿と実在の彼女の姿
を、観客に対して同一視させるという製作者の意図がそこに存在しているという事に
ほかならない。観客は、芸名のままモニター上で演技するAV嬢の姿を見て、その演
技が演技でなく本当の行為であるという幻想を抱く。そしてこの幻想は実際のセック
スに限りなく近い仮想現実として、観客のリビドーを直接的に刺激する事になる。要
するに女優が芸名のまま出演するだけでこれは演技でないと宣言できる事だというこ
とですな。これは有名女優のヘアヌードや、映画でのベッドシーンでは決して得られ
ない感覚であろう。AVが刺激的であるのは、演じている(本当は演技なんかしてな
い場合が殆どらしいけどね)行為が直接的である事もさることながら、生身の女優に
ストーリー性に重きを置く表現形態のために他ならない。ここでAV女優の肉体にス
トーリー性という幻想が生ずるわけですな。余談になるが、日活ロマンポルノが衰退
したのは『前貼り』のせいでしょうなあ。映倫の検閲をクリアするためとはいえ、ス
クリーン上の女優が役の上でのアイデンティティを持ってしまうと、しょせん演技じ
ゃん、と観客はどうしても醒めてしまうんじゃないでしょうかねえ。元々ロマンポル
ノはリビドーの充足手段として製作されていたのに、現実性を廃して非現実性のメデ
ィアあることを自ら宣言し続けたわけだから、より直接的(つまり現実的)な表現形
態を持つAVにより完全に駆逐されてしまったのもしょうがない出来事なんでしょう
ねえ。

で、要するに何が言いたいかというと、
●ジャッキー映画では、スクリーン上のジャッキーと私生活上のジャッキーが同一で
あるという幻想が存在する。
●この幻想は、彼がスタントをすべて自分で行なっているという事実に基づく
●そして彼の映画は、彼が上記の行為を通じて築き上げてきた、彼の肉体のストーリ
ー性に支えられている
●それはまさにAVと同じ手法である

さて、ここでようやく本題の『フー・アム・アイ』に入ってくる訳なのである。どう
してこう長々と“ジャッキー映画=AV論”を披露してきたかというと、今回はこれ
までのジャッキー映画とは少々趣向が違うのではないかという期待があったのだが、
やはりいつものジャッキー映画だったという感想を持たざるを得なかった、で、どう
していつも同じスタイルの映画になってしまうのかを構造論的に分析してみようと思
ったからなのである。

『フー・アム・アイ』の主人公は“記憶喪失の特殊工作員”という設定なのだが、時
々「Who am
I!!」と叫びはするけど全然アイデンティティを喪失してないんだよなあ。困った人
がいればすぐ助けるし、美女二人に挟まれても何にもしないし...要するにこの映
画でのジャッキーも、結局は“カンフーの得意なナイスガイが出てるアクション至上
主義映画”という枠組みを外れる事は出来なかったのである。やつぱり主演と監督と
脚本を本人がやってるんだから、物語の構造も彼の自我を反映するものになるのは当
然といえば当然なんだよなあ。

ただ、生身のアクションは相変わらず見せてくれますぜ。文字どおり身体を張ったス
タント、特に高層ビルの斜面を転げ落ちるクライマックスはもう足元がムズムズしま
すがな。それに相変わらず格闘シーンの見事な事、マトリックスを観て「キアヌやる
じゃん」と思っていたが、やはり本家の醍醐味は違う。けっこう長々と格闘シーンが
続くのだが、途中でギャグを入れて飽きさせない様に工夫してるんだよなあ。とにか
く生身のアクションの見せ方を良く心得てます(フィルムのコマ落としもしてるんで
しょうけどね)。サシの入った見事な松坂牛のスキ焼きを、絶妙の煮加減で小鉢によ
そってくれる仲居さんの様な演出じゃ。とはいえ、スキ焼きばかりじゃすぐにお腹が
一杯になってしまう様に、アクションばかりじゃ映画は面白くならない。しゃぶしゃ
ぶやオイル焼と調理のバリエーションを変えれば肉もたくさん食べられるというもの
。まあジャッキー映画はストーリーなどあって無くが如きもの(何故なら彼自身がス
トーリーそのものだから)であったが、今回は一応脚本に工夫の跡は見受けられる。
しかしまだまだツメが甘い。やっぱ脚本とアクション以外の演出は他の人にやっても
らった方がいいんじゃなかろうか。ジャッキー映画には珍しい、魅力的な女性の脇役
を二人も用意したんだから、もう少し伏線を張るなり性格描写を密にすれば、ただの
アクション映画から一皮剥けた一大エンターテイメント映画にする事が出来たのに、
と残念でならない。特に残念なのが、山本未来扮するラリードライバーが中盤あたり
で退場してしまう事、どうして終盤の山場に彼女を再登場させなかったのかしらん。
実に勿体無い。謎の新聞記者もミステリアスな雰囲気に欠けてるし...明朗快活な
ジャッキー映画にラブシーンは期待せんから、せめて脚本をなんとかしてくれい、科
学者の描き方も類型的だし、CIAの黒幕もあんまり悪役っぽくない。このへんのキャ
ラクター設定は20年くらい前の日本のアニメだがね。
というわけで、スキヤキ食べ放題で満足はしたけど、やっぱりしゃぶしゃぶも食べた
かったな、というのが今回の筆者の感想なのでした。

ところでムチムチ・フレンチカンカンことミシェル・フェレが謎の新聞記者役で出演
していたのには大感激、彼女バイリン以外にもカンフーアクションもOKなのね。ウ
レシイなあ、ワシ『CNNヘッドライン』の頃からのファンでっせ、『週間地球TV』
も終わってしまってもう逢えないと思ってたけど、今後は女優として活躍するんです
な。今度は連ドラにも出てね。




 
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